きれいな社員寮

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 薄く開いた窓から、桜の花びらを乗せた春の夜風が吹き込んでくる。新居に面した通りの桜は、あと一週間もすれば満開になるだろう。
 春先とはいえ、今夜はほんのりと蒸し暑い。引っ越し作業の疲れが出たのかもしれない。

「こんなに立地の良い部屋が会社の寮だなんて、私ほんとラッキーだった」

 十畳間の真ん中に置かれた座布団に胡座をかき、景子はビールの缶を開けた。目の前のテーブルには、宅配ピザとスナック菓子が置かれている。向かいのローソファに座る親友の葵が、ピザの最後の一切れを自分の皿へ取りながら、目を丸くした。

「ラッキーってことは、ハズレもあるわけ?」
「うん。うちの会社、借り上げ社宅っていうのかな? 空いている賃貸を社員寮として借り上げて社員を住まわせるって形態だからさ、空き状況によって、毎年場所も築年数も間取りもバラバラなんだって。職場から近くて広くてきれいなこの部屋に住める私は、かなりラッキーな方だと思う」
「なるほど、そういう仕組みなんだ。引っ越してみるまで分からん、ってわけね」
「そうそう。葵の寮は、みんな同じ間取りなの?」

 葵は看護の専門学校を卒業した後、景子より一年早く地元の総合病院で働き始めた。今は実家を出て、病院の隣にある寮で暮らしている。

 景子はといえば、今春県外の国立大学を卒業して、地方銀行へ就職するため地元へ戻ってきたばかりだ。実家は職場からは少し遠い。今夜からは、この借り上げ社宅が自分の家だ。
「うん、そう。狭いし、古いし、正直あんまり気に入ってない。先輩や同僚がたくさん住んでいるから、気も遣うしね。けど、病院に近いのはメリットかな。私ってほら、昔から朝が弱いタイプだからさ」

 そう言うと、彼女の個性である少し掠れた声でカラカラと笑った。髪を明るく染めたヤンチャな風貌は変わっていないが、彼女もきちんとした社会人なのだ。

「葵は昔から変わってないね。校外学習の日とか、よく私がモーニングコールしてたもんね」
「それを蒸し返すなー! なんてね。その代わり、夜は強いから、夜勤はむしろ助かってる。みんな辛いって言うんだけどさ」
「夜勤で幽霊とか、見たことある?」
「まさか。死んだ人間より、患者さんの急変の方がずっと怖いよ」

 興味津々で聞いたものの、葵の答えは少し物足りなかった。

「さすが。頼れる看護師って感じ」
「もうすぐ二年目だからね。こう見えても一応、いろんな仕事を任せてもらえるようになったんだ」

 嬉しそうに、葵は笑う。きっと、仕事で毎日が充実しているのだろう。

「私も頑張ろう」
「景子は昔からしっかりしているから、きっと大丈夫」
「だといいけど……。あ、もうこんな時間。そろそろ寝ない? 布団を敷くね」

 時計を確認すると、午前0時を回っていた。景子は立ち上がり、クローゼットを開けた。

「ありがとう」

 窓際に置かれた自分のベッドと平行になるように、景子は来客用の布団を敷く。親に勧められて渋々買ったものだが、早速役に立っている。

「じゃあ、寝よ。今日はありがとね、葵」
「なーに、水くさいこと言ってるの。親友の景子の頼みなら、なんてことないわ。それに、力仕事なら任せてよ。鍛えてるからね」

 大げさに力こぶを作ってみせる。こういう葵のあっけらかんとしたところが、景子は好きだった。

「おやすみ」
「うん、おやすみ」

 部屋の明かりを消し、ベッド脇のライトを点ける。

「きゃっ!」

 葵が悲鳴を上げたのはそのときだ。

「どうしたの、葵?」

 不思議そうに景子は尋ねる。葵は、顔を真っ青にしてガタガタと震えていた。

「なっ、なんでも、ない」
「なんでもないって顔じゃないけど」
「いいからっ! 景子、今日はもう寝よ」

 葵は声を荒らげると、そのまま布団をかぶって寝てしまった。



 翌朝、二人は近くのショッピングモールへ出かけた。一階にあるカフェでお茶するためだ。

「ねぇ、景子。気をつけた方がいいよ、あの部屋」

 生クリームがたっぷりのったホットコーヒーを飲みながら、葵は言った。
 向かいに座る景子は、怪訝な顔をする。

「どうして?」
「それは……」

 気まずそうに、葵は口をつぐんだ。嫌な予感が、景子の胸に満ちて行く。

「もしかして……葵が昨日寝る前に叫んだことと、何か関係がある?」

 少し間をおいて、葵は話し始めた。


「うん、景子には言ってなかったけどね、あのマンション、ここらでは『幽霊マンション』って呼ばれているの。景子は大学行くときにこの街を出たから知らないだろうけど……だから築浅で好立地なのに、部屋がいつも空いているのよ。それに……」

 そこまで言うと、葵は再び、口をつぐんだ。続きを言うのを、ためらっているようだ。

「それに、何……?」

 戸惑いながら、景子は疑問を投げかける。

「それにね、私、見ちゃったんだ……」
「何を?」

 眉根をギュッと寄せて、景子は尋ねた。

「寝る前にね、景子のベッドの下に青白い子どもが寝転がっていて、私をジーっと見てるの。表情も生気もない、蝋人形みたいな顔で。その後、夜中に目が覚めたときも、やっぱりあいつは同じように私を見てた」
「えっ……」

 景子は青ざめて、そのまま黙り込む。

「ねぇ、景子。あんな部屋、やめた方がいいよ。どこかに引っ越しなって」

 社員寮として割り当てられた部屋だ。引っ越したばかりで、すぐに出て行くわけにはいかない。
 何より、これから社会人としての生活が始まるのだ。しばらくは、引っ越すだけの時間と心の余裕もないだろう。

 心配そうに話す葵の声を、景子はそのまま、まるで人ごとのように聞いていた。

 (完)


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