初恋などいつか忘れてしまう、と誰かが言った。
蓉子はそれを羨ましいと思う。
蓉子はその恋を、生涯忘れることはないだろう。
*
寛太は蓉子の幼馴染みだ。
気の弱い蓉子を、豪胆な性格の寛太はいつもかばってくれた。
蓉子は寛太のことを、無意識のうちに好きになっていた。
村の西の端にある丘の神社で、二人はよく遊んだ。
石段を二百段も上った先にある境内は、見晴らしがよくて人も少なかったからだ。
本殿の裏には見事な桜の木があって、そこから大きな街が見渡せた。
ちょうど桜が満開になる頃に開かれる例大祭には、村中から人が訪れた。
「なあ、蓉子。冷やし飴、飲むか?」
「私はいいわ。今はそんなに喉が渇いていないから」
嘘だった。
本音はお金の持ち合わせがないからなのだが、祭りの雰囲気を壊してしまいそうで、言えなかった。
「そうか。じゃあ、ちょっと買ってくるな」
寛太は気安く返事をすると、冷やし飴の屋台へ向かった。
冷やし飴とは、湯で溶いた水飴を冷やした飲み物である。
この地方ではあまり見られないが、毎年、この例大祭に屋台が出て、村の人々から人気を集めていた。
寛太は生姜の効いた冷やし飴を好んでいた。
蓉子は生姜の風味が苦手で、それも冷やし飴を断った理由だった。
「はい、これ、蓉子に」
戻ってきてそのまま差し出された瓶に、蓉子は驚く。
「わたしは、今はいいって言ったのに」
「でも、一年に一度の祭りだから。ひとくちでも飲んでいけよ」
「……ありがとう」
口をつけて、再び瞠目した。
それは、生姜の風味のしない冷やし飴だったのだ。
水飴の甘みとほんのりと香るニッキが絶妙で、蓉子は喉を鳴らした。
「気づいたか? 今日はなんだか、生姜の気分じゃなかったから。それにこれなら、蓉子も好みだろ?」
「寛太……ありがとう」
何気ない寛太の優しさが、蓉子は嬉しかった。
冷やし飴を手にしたまま、蓉子は寛太と本殿裏の桜の下へ向かう。
桜は今年もちょうど満開で、夕闇に薄桃色の花びらが映えていた。
「桜の木の下には屍体が埋まっている、って、寛太は聞いたこと、ある?」
ふと、蓉子は最近知ったばかりの話題を口にした。
「物騒な話だな」
「梶井基次郎っていう作家のお話に出てくるの。桜の花があんまり綺麗だから、きっと屍体が埋まっているんじゃないかって、思う男のお話なのよ」
「そういうもん、なのかなあ。その作家は、よっぽど桜が好きなんだな」
あっけらかんと、寛太は思ったことを口にした。
「寛太らしい感想ね」
「悪かったな。教養だったら、俺は蓉子にはかなわないよ」
言いながら、ふざけて笑いかける。
「ううん、わたしは寛太のそういうところ、好きよ」
思わずこぼれた言葉が寛太を動揺させたことに、蓉子は気づかない。
真実、蓉子は寛太のこの鷹揚さを愛していたのだ。
蓉子は父子家庭で育った。母は蓉子が小さな頃に亡くなった。
父と娘の二人暮らしで、蓉子は自分が不幸だと感じたことはない。
父はいつでも蓉子を思っていてくれたから。
生活は苦しかったが、それを蓉子が引け目に感じないよう、必要とあれば惜しみなくお金をかけてくれた。
今日だって、例大祭へ来るために、見事な藍染めの浴衣をあつらえてくれたのだ。
*
多額の結納金と引き換えの縁談の話が舞い込んだときも、真っ先に反対したのは父だった。
当時、父は肺の病を患っていて働けず、治療費はおろか生活費を工面するのにも苦労していた。
「金なんか、いらん。人生、金がすべてではないだろう」
「それはそうだけれど、でもね父さん、何をするにもお金は必要よ。結納金が手に入れば、良いお医者様に診ていただけるわ」
父は、静かに溜め息を吐いた。
「蓉子、すまない。……お前が女でなければ、こんな苦労をさせずに済んだものを」
ぽつりと呟いた一言は、思わずこぼれた本音、という風だった。
「父さん、それは違うわ。私が女だから、父さんを幸せにできるのだもの。私は、女に生まれて幸せよ」
そうして嫁いで半年後、最初に迎える例大祭に合わせて、蓉子はこの村へ、里帰りをしてきた。
*
今年も例大祭の夜は訪れて、桜の花は満開になった。
なんの約束もしていないのに、蓉子は桜の木の下に佇んでいた。
黄昏に舞い散る桜の花びらが、蓉子を静かに包んでいる。
その周りだけ、時が止まっているようだ。
嫁いでから初めて見る蓉子の姿を、寛太は直視できなかった。
寛太は蓉子を愛していた。
けれども、結納金のために嫁ぐ蓉子を、引き留める術を持たなかったのだ。
「寛太、久しぶり」
手を上げて発する言葉は、その明るさとは対照的に、どこか寂し気にあたりに響く。
「ああ、久しぶり。元気だったか? 蓉子は」
「うん、もちろんよ。向こうの生活にも、やっと慣れたし」
しばらく世間話をした後、 蓉子は結い上げた髪から簪を引き抜き、寛太に差し出した。
「これ、千代ちゃんにあげる。私にはもう子どもっぽいし、ちょうど年頃の千代ちゃんは喜ぶんじゃないかしら」
千代は歳の離れた、寛太の妹だ。
幼い頃から、蓉子は千代の面倒をよく見てくれた。
髪が梳かれ肩に落ちると、蓉子の顔は途端に少女の面影を宿す。
ずっと見知っていた、蓉子の横顔。
「いいのか?」
受け取りながら、寛太は問う。
「ねえ、寛太。桜の木の下には、何が埋まっていると思う?」
あの日の質問を、蓉子は繰り返した。
「なんだろうな、屍体、でなけりゃ」
「わたしは、思い出だと思う」
「思い出?」
「わたしと寛太の思い出が、この桜の木の下には埋まっているの。桜はきっと、たくさんの人の思い出を食べて、こんなに美しく咲くのよ」
遠く、丘の下に広がる街を見下ろしながら、蓉子は言った。
日の落ちた街に、ぽつりぽつりと橙色が散らばっている。
寛太は想像する。
きっとそれぞれの灯りの下には家庭があって、今頃温かい笑いに包まれている。
「そうかもな」
言いながら、寛太は蓉子の横顔を見つめた。
透き通るように白いその肌に、表情は見えない。
寛太は不思議だった。
いつだって、ここからは遠くの街並みは見渡せた。
だから自分は、すべてを知った気になっていたのだ。
なのに――。
なのに、隣にいる蓉子の心は一度だって、分からないままだった。
沈黙が、二人の間に下りる。
祭り囃子が、群衆の笑い声が、どこか違う世界の出来事のように聞こえる。
桜の木の下はただただ静かで、花びらの舞う音だけが、あたりに響くようだった。
「寛太、またね」
蓉子はそっと手を上げて合図をすると、踵を返して歩き出す。
艶やかな簪のべっ甲の表面に、祭りの提灯の光が映る。
あっけにとられたまま、寛太は立ち止まり、蓉子を見送る。
蓉子が最後に選んだのは、さよなら、ではなく、また、という言葉だった。
またの機会がないことくらい、二人とも分かっているはずなのに。
「うん、また」
寛太は短く返事をすると、握った拳を満開の桜の幹に打ちつけた。
(完)
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